重信房子

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重信 房子
通称
生年1945年09月28日(2024-1945)+((03-09)*100+(28-28)>=0)-1歳)
生地日本の旗 日本 東京都世田谷区
没年
没地
思想マルクス主義
活動ハーグ事件ほか
所属共産主義者同盟(第二次)→)
(関西派→)
共産主義者同盟赤軍派→)
(赤軍派アラブ委→)
日本赤軍→)
無所属
投獄
裁判懲役20年
刑場
受賞
記念碑
母校
信教
影響を受けたもの
影響を与えたもの
現職
脚注
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重信 房子

重信 房子(しげのぶ ふさこ、現姓:奥平、1945年9月28日 - )は日本新左翼活動家、テロリスト。元日本赤軍の最高指導者。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

ポツダム宣言調印の翌日に東京都世田谷区で4人兄弟の次女として生まれた。父親は四元義隆とは同郷の同志の鹿児島県出身で第二次世界大戦前血盟団事件に関与した右翼団体金鶏学院の門下生であった重信末夫血盟団メンバーと報じられることがあるが、メンバーではなく事件にも一切関与していない)。東京都立第一商業高等学校卒業後、キッコーマンで働きながら明治大学文学部史学地理学科(二部日本史学)に通った。

学生運動[編集]

この時、学費値上げに絡んで学生運動に参加した。この際、後に連合赤軍山岳ベース事件でリンチ殺人の犠牲となった遠山美枝子(二部法学部、麒麟麦酒勤務)と知り合う。第二次ブント(共産主義者同盟)に加入し、その後分裂した赤軍派(共産主義者同盟赤軍派)に創立メンバーとして加わる。塩見孝也ら幹部が逮捕され弱体化する中で主導権を握った森恒夫と対立した。

日本赤軍[編集]

日本赤軍のメンバー

1971年に「国際根拠地論」に基づいて、パレスチナ赤軍派の海外基地を作ろうとする。奥平剛士偽装結婚(奥平剛士は1972年5月、民間人ら23人を殺害、計100人以上を無差別殺傷したテルアビブ空港乱射事件のテロ行為で死亡)をし、「奥平房子」という戸籍を得て2月28日に出国した。なお重信は、後にパレスチナ人男性結婚した。

1973年に長女・(メイ)を出産。その後、次女の革(アラタ)、長男の強(ツヨシ)を出産。三人の名を合わせると「強い革命」となる。

その後パレスチナで日本赤軍を結成する。創設当初は「アラブ赤軍」、「赤軍派アラブ委員会」、「革命赤軍」等と称し、その名称さえきちんと定まっていなかったが、1974年以降、「日本赤軍」を正式名称とした。

重信が「最高指導者」となった日本赤軍は、レバノンベカー高原を主な根拠地に、「革命運動」を自称し1970年代から1980年代にかけて、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)などパレスチナの極左過激派と連携し、一連のハイジャック空港内での乱射事件などの無差別殺人を起こした。さらに外国公館の政府要人やハイジャックした飛行機の乗客を人質に取って、身代金や仲間の奪還を目論む事件を起こしたり、外国公館に攻撃をするなど、民間人をも巻き込んだテロ事件を繰り返した。

逮捕[編集]

逮捕時の重信 房子

その後重信は「ハーグ事件」への関与で国際指名手配を受けたものの、逃亡を続けた。その後、不法に入手した偽造パスポートを使って日本に帰国。2000年に重信が日本の大阪府高槻市に潜伏しているとの情報が警察に入ってきた。重信はホクロが特徴となっていたが、化粧でホクロを隠していた。内偵する内に、特有のタバコの吸い方から重信本人と突き止めた。11月8日に潜伏していた高槻市で旅券法違反容疑で警視庁公安部によって逮捕される。なお、大阪から警視庁への移送には東海道新幹線が用いられ、当時運用されていた100系で移送された。その際は逃亡を防止する為グリーン車の個室に閉じ込めての移送となった。押収された偽造パスポートには、1997年12月から2000年9月には自らが他人になりすまして旅券を取得し、関西国際空港から計16回にわたって中華人民共和国などに出入国を繰り返したことが確認されている。

逮捕の際に押収された資料により、1991年から日本での「武力革命」を目的とした「人民革命党」及びその公然活動部門を担当する覆面組織「希望の21世紀」を設立していたこと、またそれを足がかりとして日本社会党との連携を計画していたことが判明したと新聞等で報じられた。

なお、「希望の21世紀」は同事件に関連し警視庁と大阪府警の家宅捜索を受けたが、日本赤軍との関係を否定している。社民党区議の自宅なども「希望の21世紀」の関連先として同時に捜索を受けたが、社民党は「何も知らなかったが事実関係を調査する」とした。

解散[編集]

2001年には獄中から日本赤軍の解散を発表している。2009年6月に、初めて産経新聞のインタビューに応じ、過去の活動について「世界を変えるといい気になっていた」と語った。一方で「運動が行き詰まったとき、武装闘争に走った。世界で学生運動が盛り上がっていたが、故郷に戻り、運動を続けたところもあった。私たちも故郷に戻って運動を続けていれば、変わった結果になったかもしれない」と自責の念にも駆られていたとも述べた。

ハーグ事件裁判[編集]

昭和48年の重信 房子
1975年5月の重信 房子

1974年9月13日に、日本赤軍がフランス当局に逮捕されたメンバー(山田義昭)を奪還するために、オランダハーグで起こしたフランス大使館占拠事件、いわゆる「ハーグ事件」への関与をめぐり、監禁殺人未遂などでの共謀共同正犯で起訴される。検察側は日本赤軍が実行翌日に犯行声明を出したり、その他の日本赤軍の刊行物からパレスチナ解放人民戦線(PFLP)に武器調達や解放された仲間を受け入れる国との調整を依頼していたこと、事件後の会議で重信が準備不足などを反省する発言をしたとする元メンバーらの供述などの証拠から、ハーグ事件について首謀者として犯行を主導したと主張し無期懲役を求刑した。弁護側は「ハーグ事件当時、日本赤軍が組織体制を確立しておらず、PFLPの作戦であったから重信が指示・指導する立場ではなかったうえ、謀議があったとされる時期にはリビアにいてアリバイがある」と無罪を主張した。東京地方裁判所2006年2月23日に、「重信被告は武器調達や解放された仲間を受け入れる国との調整をPELPに依頼するという重要な役割を担っていた」と認定し、さらにアリバイについては「共謀の詳しい内容や時期、場所は明らかではないが、被告がアラブ諸国の協力組織を介するなどして実行犯と共謀しており、アリバイとして成立しない」と認定した。量刑は「自らの主義や主張を絶対視し、多数の生命、身体への危険を意に介さない身勝手な犯行であり、真摯な反省がみられない」としたが、一方で「犯行の重要事項については実行犯の和光晴生が決定しており、被告は中核的立場を担ったものの犯行を主導したと断言できない」とし、検察が求刑していた無期懲役を退けて懲役20年判決を言い渡した。

重信は判決後の法廷で、ガッツポーズをみせ「がんばります」と傍聴席に声をかけた。弁護側と娘のメイと主任弁護人大谷恭子は同日司法記者クラブで記者会見し判決を非難し、ただちに控訴した。

控訴審では弁護側と検察側双方が、1970年代から1980年代にかけ世界各国でテロ事件を起こし、フランスで終身刑を受けているテロリストの「カルロス」受刑者から、「ハーグ事件」の指揮系統や武器提供の経緯についての証言を得て、裁判所に提出された。2007年12月20日に東京高等裁判所は一審判決を支持し、控訴棄却。重信は上告したが2010年7月15日に棄却が決定し刑が確定した。重信は上告棄却決定に対する異議申し立てを行ったが、2010年8月4日に最高裁第2小法廷(竹内行夫裁判長)は棄却する決定をし、懲役20年とした一、二審判決が確定した。出所予定は2022年。

逮捕の予兆[編集]

「重信は来年日本に帰ってくるよ」

日本赤軍の支援者A氏は、1998年、ある団体の忘年会の席上、こう明言した。出席者が、驚きながら「どうやって?」と質問すると、A氏は、

「偽造パスポートを使えばわけない。偽造でなくとも、同じ年格好で見分けのつきにくい人は結構いるものだ。そういう人間のパスポートを使えば難しいことではない」

と、自信満々に答えた。

日本赤軍最高幹部、重信房子容疑者(本名=奥平房子)の突然の逮捕劇は日本中をあっと驚かせた。が、すでに2年前に、潜入帰国はごく近い人々には通達されていたのである。

重信容疑者は11月8日朝、大阪府高槻市内のホテルを支援者の男性2名と出てきたところを逮捕された。

「今年7月下旬、大阪府警本部に、『重信房子に似た女がいる』というタレコミがあった。赤軍内部からの情報だ。高槻は'70年代に赤軍派の拠点があったところで、現在でも支援者が多い。中でも市内のB病院は、職員のほとんどが日本赤軍の支援者で、一大拠点となっている。この病院関係者の住まいや寮、関連施設などをしらみ潰しにあたっているうちに、アジトに出入りする中年女性を発見した。最初は重信とわからなかったが、写真や指紋をとり、前日までにようやく確認がとれ、逮捕に踏み切った」(公安関係者)

やはり支援者の一人である関東在住のC氏によれば、

「重信が帰国しているという噂は、今年の夏前から、一部新左翼関係者の間で囁かれていた」

というから、情報が警察に漏れるのは時間の問題だった。

重信が潜伏していた大阪市西成区のアパートには、本人の顔写真が貼ってある別の日本人名義のパスポートやノートパソコン、フロッピーディスク携帯電話数台などが残されていた。アパート、ホテルとも支援者名で借りてあった。中東情勢に詳しいジャーナリストが言う。

「中東の日本赤軍は、岡本公三イスラエルでの13年にわたる獄中生活で精神を病み、ベイルートで一斉拘束された他の4人も今年3月に国外強制退去ののち送還されて逮捕された。もう実質的には彼女一人しか残っていないような状態でしたから、生きていくので精一杯だったようです」

警視庁に移送された重信に接見した弁護士によると、重信は、

「やり残した仕事がたくさんあり残念だが、日本で皆さんに会えることを楽しみにしている」

と話したそうだ。このコメントには“望郷”のニュアンスも感じられる。重信容疑者は、9月末に香港から関西国際空港に着いており、それ以前にも、中国、マカオなどを転々とし、日本にも過去3年間で4回入国した記録があるという。

「最近の重信の拠点はもはや北京といっていいほどだった。今年2月には、アラビア石油がサウジの油田採掘権の再契約に失敗した件を材料に、自分のコネクションを通じてサウジ王家と交渉できることをアピール。それを取引材料に政府に働きかけて帰国を実現しようと画策した。水面下では、何度かそうした交渉があったのです」(元公安調査庁調査第二部長・菅沼光弘氏)

「日本赤軍の女帝」重信房子容疑者は55歳。1971年に日本を出国し、レバノンに渡ってから29年になる。血と銃弾に彩られた彼女と日本赤軍の軌跡を簡単にたどっておこう。

日本赤軍の前身ともいえる共産主義者同盟(ブント)赤軍派が結成されたのは1969年。その後、赤軍派のメンバーは3つに分かれていく。

ひとつは19700年日航「よど号」乗っ取り事件を起こし北朝鮮に亡命した田宮高麿ら9人のグループ。

重信が奥平剛士と偽装結婚してベイルートへ出国した翌年の1972年2月には、日本では「連合赤軍」が「浅間山荘」に立てこもり、警察と銃撃戦を展開。凄惨なリンチ殺人事件を起こしていたことが発覚し、国内の赤軍派は事実上壊滅する。

そして残る一つが重信ら中東を拠点とした「日本赤軍」だ。彼らは1972年5月30日に岡本公三(52歳)らが、イスラエル・テルアビブロッド空港で乱射事件を引き起こしたことをきっかけに地下に潜り、1974年に「日本赤軍」を正式に名乗る。重信は、その最高機関・政治委員会のリーダーに就任した。

その後、日本赤軍は、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と共闘し、レバノン・ベカー高原を拠点に、オランダ・ハーグやマレーシア・クアラルンプールの大使館占拠事件、日航機をハイジャックしたダッカ事件など、国際テロ事件を次々に起こし、世界にその名を轟かせた。

が、1997年にテルアビブ空港乱射事件の唯一の生き残りで、パレスチナ人民から英雄視されていたはずの岡本公三ら5人のメンバーが、潜伏先のレバノンで逮捕される。全盛期に30人といわれたメンバーも逮捕が相次ぎ、中東情勢の変化もあって、組織は衰退の一途をたどった。

中東問題の専門家である拓殖大海外事情研究所・佐々木良昭教授がいう。

「日本赤軍にかつてのような戦闘能力はなくなっている上、中東の情勢がその存在を許さない環境になっている。パレスチナにとっても、いまや赤軍は邪魔でしかなくなっていたし、シリアも大統領が代わって対日政策が変わりつつあり、赤軍は居場所がなくなっていた。先に逮捕された赤軍メンバーの丸岡修服役囚(50歳)のしまりのない体型を見ても、もはやコマンド(=ゲリラ戦闘員)のそれではなかった。彼らは日本へ帰る以外に行き場所がないんです」

こうした中で重信は、日本の支援者に書簡を出したり、声明を出すなどプロパガンダに努めてきたが、武装闘争を手段とするテロリストの側面はなくなっていった。

「1972年以来、テルアビブ乱射事件の日(5月30日)に、毎年、重信は『5・30声明』を出し続けてきたのですが、1995年には“武装闘争は誤りである”という声明を出し、この年にはベカー高原の拠点を引き払って、ベイルート市内のアパートに身を寄せるようになっていた。彼女はPFLPの幹部と結婚しているから、それなりの待遇ではあったようだが、もはや飼い殺しに近い状態になっていたようだ。現に今回の逮捕でもPFLPからは何の声明も出ていない。いかに日本赤軍との縁が薄くなっていたかの証拠でしょう」(全国紙外報部記者)

また、支援者に、「湾岸戦争後、CIAの圧力が強くなったため、東南アジアに活動の拠点を移すつもりだ」とも語っていた。関西の左翼系新聞「人民新聞」の編集主幹は、今回の逮捕をこう見る。

「いくら組織支援とはいえ、重信が報道のように小規模の会議にのこのこ出てくるとは信じがたい。最近、彼女は、うちの新聞に、『銃による平和はもうたくさん』などと、大衆闘争路線への転換を示唆するようなリポートを寄せている。日本国内に拠点を移し、公然活動に入るための、覚悟の逮捕ではないか」

多くのテロ事件に関わったとされる重信だが、いずれも実行犯ではない。日本赤軍のメンバーが次々に逮捕されていく現状のなかで、比較的罪の軽い重信が帰国して“みそぎ逮捕”され、公然の存在となって新たな活動を続けようとしていたのではないか、というわけだ。

しかし、9日にはこうした重信の思惑を裏切るかのように、警視庁はハーグ事件での殺人未遂容疑で彼女を再逮捕している。およそ30年間にわたって世界を騒がせてきたテロリスト・重信房子の素顔とはいったいどのようなものなのか。

終戦の年の1945年、東京・世田谷で重信は生まれた。父親は鹿児島出身で、若いころは、右翼組織「血盟団」のメンバーだったという。食料品のよろず屋を営んで、生計をたてていた。重信の手記『わが愛わが革命』には以下のようなくだりがある。

〈'67年の羽田闘争のあとだったと思う。泥まみれになって帰った私に、父が言った。

「房子、今日の闘争はよかった。だけど、あれには、人を殺す姿勢がないな」

……父はつづけた。

二・二六事件にしても、血盟団にしても、歴史はあとで右翼とか何だとかいうが、われわれは正義のためにやったのだ。政治家が腐敗していたから、われわれが権力を変えて、もっと人民がうるおえる社会にしたいと思ってやったのだ。房子は、いま左翼だといわれているけれども、とにかく自分が正義だと思うこと、それだけをやれ!〉

重房の“革命家”としての下地は、父親によって育まれたのかもしれない。高校卒業後、キッコーマン醤油に就職。1年後、明治大学の二部に入学する。OLのかたわら、夜間大学に通うようになり、ここで大学紛争に出会うのである。

気さくな美人活動家として学内で知られた存在だった彼女には恋の噂も多かった。大学時代には婚約までしていたという。相手は地方の名家出身で2~3歳上の早大生だった。それでも、

〈あいかわらず彼は、私の手も握らない。会うたびに、この間別れたときから、今日まで何をしてたか、そんな話と討論に時間が過ぎていく〉(同書)

が、彼は暴力的な学生運動には無縁だった。一方、彼女はどんどんのめり込み、やがてバリケードの中に泊まり込むようになる。そして1年後、彼女の方から別れを告げた。闘争に明け暮れる生活はOLと両立しなくなり、会社も辞めた。そんなとき、

〈突然、職業革命家になろうと決心していた〉(同書)

いわば、彼と別れた傷心の中で“女革命家”が誕生したのである。この手記を構成した脚本家・佐々木守氏が当時を振り返る。

「大学の先輩後輩でもあった僕と彼女が知り合ったのは、'70年安保の真っ最中。新宿の左翼学生がたむろする、酒場みたいなところで話すようになったのがきっかけです。そういうところに出入りする女子学生というのは、マルクスとかを一生懸命勉強している生真面目な女性ばかりでしたが、彼女は、『この前、守さんがやったテレビ見ましたよ』と話しかけてくれた。人を見て対応する能力に、実に優れていた。それはベイルートで会っても変わりませんでした。生来の天真爛漫さ、ほがらかさで、自然とまわりの人間を楽しませてくれる明るさが、他派に比べて日本赤軍という組織が長く続いた原因の一つではないでしょうか」

前出・佐々木教授がいう。

「重信房子の存在というものは、日本赤軍にとって一種、精神的なよりどころだったのだと思います。当時、日本の左派は、内部で盛んに粛清していました。赤軍に参加した20代の若者にとっても、生きづらい危険な状態が続いていたわけです。そんな中で彼女は、たどたどしい言語を使ってパレスチナとコンタクトをとり、ときに自分の体を張った行動で信頼を得て、PFLPと渡りをつけた。メンバーにとっては、彼女は、母であると同時に、姉であり、妹であり、恋人でもあるような存在だったのだと思います。今ではさすがに美貌もおとろえていましたがね」

前述のように、レバノンに渡ったのは'71年。すでに2回の逮捕歴がある重信がパスポートを申請すれば、公安側に筒抜けになる。名字を変えるための偽装結婚が必要だった。

〈わたしはあせった。あせりながら結婚の相手を探した。……ある日、わたしはついに決心して奥平君を訪ねた。『やっぱりあんたの名前借りるわ』。そしたら奥平君は、ぴくっと顔を上げて、照れたように笑っていった。『ああ、それでもいいよ』。それがわたしたちのプロポーズであり、婚約であり、結婚式であり、要するに、男と女が結婚するためのすべてであった〉(同書)

当時、レバノンで日本レストランを経営していた女性Dさんは、重信の印象を、

「迷彩をほどこした野戦服にカラシニコフ銃のパレスチナゲリラを引き連れて、颯爽とハムラ通り(メインストリート)を歩いていた。かっこ良かったですね」

と言う。かつて「ブントのマタハリ」とよばれ、美人闘士として名をはせた彼女の絶頂の頃である。しかし'72年には夫の奥平剛士は、テルアビブ空港乱射事件で自爆して死亡。それまで公然と活動をしていた重信も地下活動へと突き進んでいった。

その後、重信は、PFLPの幹部と結婚、2児をもうけた。

「私は彼女の夫に2~3回会ってますが、長身でスマート、役者にしてもいいような美男子です。2人の子供はパレスチナの難民キャンプで生活してました。長女は優秀で、パリのソルボンヌ大学に入り、さらに大学院まで進みました。もう30歳近いんじゃないでしょうか。次女もソルボンヌに進学したと伝え聞いたことがあります」(重信と交流のある都内の元書店経営者)

2人の娘が成人したことも、重信容疑者が帰国を決意した理由ではとみる関係者もいる。さて、重信の逮捕で、今後、日本赤軍はどうなるか。

「はっきりしているのは、赤軍の中東における使命が、完全に終わったということです。赤軍はこれまでベカー高原を拠点にし、シリア支配下にいたが、保護者たるアサド大統領が死去。加えてアラブ情勢が大きく動いて、イスラエルの力が増大した。モサド(イスラエル中央情報局)は彼女たちの動きを逐一把握しており、昔のようなゲリラ活動は不可能です。しかも、シリアは日本との間で経済上の取引があり、その利害を連動させて日本赤軍の扱いを考えるはず。注目されるのは、重信が表面上は黙秘でも、何をどこまで話すか、どんな取引材料を持ち出すかでしょう。ハーグ事件などに関与したといっても、彼女は実行犯ではないから、それで起訴できるかどうかも予断を許さない。はっきりしているのは旅券法違反など軽いものだけなので、その面でもまだ流動的です」(前出・菅沼氏)

その他[編集]

関連する作品[編集]

重信 房子の娘でジャーナリストの重信メイ
『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』
カンヌ国際映画祭の帰途で足立正生若松孝二の両監督が、レバノンベイルートに滞在する重信とPFLPの協力を得て撮影した映画。若松プロダクション製作の1971年ドキュメンタリー作品。監督は足立と若松の共同で行ない、重信は両監督とともにPFLPの日常をルポし、日本語版作品の音声も担当している。2007年ニュープリント上映された。
『オリーブの樹の下で』
ロックヴォーカリストパンタがアコースティックユニット「響」の作品として、2007年8月に発表したアルバム。アルバム中の歌詞は重信房子とパンタとの往復書簡を利用して作詞されている。娘の重信メイが、「母への花束」の作詞を、またLeila's Ballade (『ライラバラード』)で英語訳詞も担当している。

文献[編集]

著書[編集]

  • 1974年 『わが愛わが革命』講談社、
    • パレスチナ解放闘争史: p.260 - 263
  • 1983年1月 『十年目の眼差から』話の特集、ISBN 4826400667
  • 1984年7月 『大地に耳をつければ日本の音がする 日本共産主義運動の教訓』ウニタ書舗、ISBN 4750584096
  • 1984年10月 『ベイルート1982年夏』話の特集、ISBN 4826400829
  • 1985年12月 『資料・中東レポート』1(日本赤軍との共編著)、ウニタ書舗
  • 1986年4月 『資料・中東レポート』2(日本赤軍との共編著)、ウニタ書舗
  • 2001年4月 『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』幻冬舎、ISBN 434400082X
  • 2005年7月 『ジャスミンを銃口に 重信房子歌集』幻冬舎、ISBN 4344010159
  • 2009年7月 『日本赤軍私史 パレスチナと共に』河出書房新社、ISBN 978-4309244662

関連文献[編集]

  • 2002年5月 重信メイ著『秘密 パレスチナから桜の国へ母と私の28年』(講談社) - ISBN 4062108593
  • 2003年2月 重信メイ著『中東のゲットーから』(ウェイツ) - ISBN 4901391313
  • 2007年 婦人公論: 島﨑今日子『重信房子 この空を飛べたら』
    • (1)「父の娘」(2007年11月22日号)【抜粋@婦人公論公式サイト】
    • (2)「青春の闘争」(2007年12月7日号)
    • (3)「運命の同志」(2008年1月7日号)
    • (4)「戦火に生きて」(2008年1月22日号)
  • 2008年 「重信房子氏に聞く(上) 60年代・70年代を検証する 全共闘の魂はアラブを駆け巡った」(『図書新聞』第2885号 2008年09月13日、聞き手・小嵐九八郎)【冒頭@『図書新聞』公式サイト]】、「重信房子氏に聞く(下)」(『図書新聞』第2886号 2008年09月20日、聞き手・小嵐九八郎)

脚注[編集]


関連項目[編集]