賤ヶ岳の戦い

提供: Yourpedia
移動: 案内検索

賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との戦いである。織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけた。

清洲会議[編集]

天正10年6月2日1582年6月21日)、織田信長とその嫡男で当主の織田信忠本能寺の変で重臣の明智光秀によって殺害されると、その後間もない山崎の戦いで光秀を倒した羽柴秀吉が信長旧臣中で大きな力を持つに至った。6月27日7月16日)、当主を失った織田氏の後継者を決定する会議が清洲城で開かれ(清洲会議)、信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と織田信忠の子である三法師(のちの織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しく対立した。結果的には同席した丹羽長秀池田恒興らが三法師擁立に賛成したためにこの後継者問題はひとまず決定した。なお異説として、柴田勝家は三法師擁立に反対ではなく、清洲会議は、この4武将が結託して織田家から天下を奪ったクーデターだったとする説もある。 この説では、秀吉が天下を狙う意図を明確にしたのは、翌月に自らの主催で大規模な信長の葬儀を行った時である。勝家は秀吉のこれらの一連の行動を自らの政権樹立のためであると考え、激しく警戒し、敵意を抱いた。信孝は、何が起きているか理解できず、秀吉と勝家を仲裁しようとしていた。

合戦にいたるまで[編集]

両陣営の動き[編集]

この後双方とも周囲の勢力を自らの協力体制に持ち込もうと盛んに調略を行うが、北陸の柴田氏の後方にある上杉景勝や、信孝の地盤である美濃の有力部将・稲葉一鉄が、羽柴秀吉になびくなどやや秀吉に有利な状況にあった。一方で勝家は四国長宗我部元親紀伊雑賀衆を取り込み、特に雑賀衆は秀吉の出陣中に和泉岸和田城などに攻撃を仕掛けるなど、後方を脅かしている。

柴田勝家による和平交渉[編集]

10月16日、柴田勝家は、堀秀政に覚書を送り、秀吉の清洲会議の誓約違反、及び不当な領地再分配、宝寺城の築城を非難している[1]

11月、勝家は前田利家金森長近不破勝光を秀吉のもとに派遣し、秀吉との和睦を交渉させた。これは勝家が北陸に領地を持ち、冬には雪で行動が制限されることを理由としたみせかけの和平であった。秀吉はこのことを見抜き、逆にこの際に三将を調略しており、さらには高山右近、中川清秀、筒井順慶、三好康長らに人質を入れさせ、畿内の城を固めている。

羽柴秀吉による長浜城、岐阜城攻め[編集]

12月2日12月26日)、秀吉は毛利氏対策として山陰は宮部継潤、山陽は蜂須賀正勝を置いた上で、和睦を反故にして大軍を率いて近江に出兵、長浜城を攻撃した。北陸は既に雪深かったために勝家は援軍が出せず、さらに勝家の養子でもある城将柴田勝豊は、わずかな日数で秀吉に降伏してしまった。さらに秀吉の軍は美濃に進駐、稲葉一鉄などから人質を収めるとともに、12月20日(1583年1月13日)には岐阜城にあった織田信孝を降伏させた。

滝川一益の挙兵[編集]

翌天正11年(1583年)正月、伊勢滝川一益が柴田勝家への旗幟を明確にして挙兵し、関盛信一政父子が不在の隙に亀山城、峯城、関城国府城鹿伏兎城を調略、亀山城に滝川益氏、峯城に滝川益重、関城に滝川忠征を置き、自身は長島城で秀吉を迎え撃った。秀吉は諸勢力の調略や牽制もあり、一時京都に兵を退いていたが、翌月には大軍を率いこれらへの攻撃を再開、国府城を2月20日4月11日)に落とし、2月中旬には一益の本拠である長島城を攻撃したが、滝川勢の抵抗は頑強であり、亀山城は3月3日4月24日)、峯城は4月12日6月4日)まで持ち堪え、城兵は長島城に合流している。この時、亀山城、峯城の守将・益氏、益重は武勇を評され、益重は後に秀吉に仕えた。

柴田勝家の挙兵[編集]

一方で越前・北ノ庄城にあった柴田勝家は雪のため動けずにいたが、これらの情勢に耐え切れず、ついに2月末、残る雪をかきわけつつ近江に向けて出陣した。

合戦[編集]

賤ヶ岳古戦場登山道入口

布陣[編集]

3月12日5月3日)、勝家は前田利家佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた。一益が篭る長島城を包囲していた秀吉は織田信雄蒲生氏郷の1万強の軍勢を伊勢に残し、3月19日5月10日)には5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣した。双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築した(遺構がある程度現在も残る)。また、丹羽長秀も勝家の西進に備え海津と敦賀に兵を出したため、戦線は膠着し、3月27日5月18日)秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の2方面に備えた。秀吉から秀長に「(自軍の)砦周囲の小屋は前野長康黒田官兵衛、木村隼人の部隊が手伝って壊すべきこと」と3月30日付けの書状が送られたが、この命令は実行されていない[2]

美濃返し[編集]

4月16日6月6日)、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出した。ここに来て近江、伊勢、美濃の3方面作戦を強いられた秀吉は翌4月17日6月7日)美濃に進軍するも、揖斐川の氾濫により大垣城に入った。秀吉の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た勝家は部将・佐久間盛政の意見具申もあり、4月19日6月9日)、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。大岩山砦を守っていたのは中川清秀であったが、耐え切れず陥落、中川は討死。続いて黒田孝高の部隊が盛政の攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。盛政はさらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れた。この成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず盛政はこれを拒否、前線に軍勢を置き続けた。

4月20日6月10日)、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴も撤退を開始する。これにより盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた。しかしその頃、時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他にないと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。長秀率いる2000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となるとそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し間一髪の所で賤ヶ岳砦の確保に成功する。

さらに同日、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの丘陵地帯を含む52キロメートルをわずか5時間で移動した[3]。佐久間盛政は、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲されただが奮闘。秀吉は柴田勝政に攻撃対象を変更、この勝政の軍に盛政が逆に救援し、両軍は激戦となった。

ところがこの最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。理由は諸説あるが、秀吉とは信長の部下時代からの親友であり、同時に勝家とは主従関係にあったこと、この相関関係に耐えきれなかったというのが一番有力な説である。このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到した。多勢に無勢の状況を支えきれず勝家の軍勢は総崩れし、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却した。

北ノ庄、岐阜、長島城の落城と信孝自害[編集]

勝家は北ノ庄城に逃れるものの、4月23日6月13日)には前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌日に夫人のお市の方らとともに自害した。また佐久間盛政は逃亡するものの黒田孝高の手勢に捕らえられた。のちに斬首され、首は京の六条河原でさらされた。また、柴田勝家の後ろ盾を失った美濃方面の織田信孝は秀吉に与した兄・織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏、信孝は尾張国内海(愛知県南知多町)に移され、4月29日6月19日)信雄の使者より切腹を命じられて自害した。残る伊勢方面の滝川一益はさらに1か月篭城し続けたが、ついには開城、剃髪のうえ出家し[4]、丹羽長秀の元、越前大野に蟄居した。

賤ヶ岳の七本槍[編集]

秀吉と賤ヶ岳の七本槍
『賤ヶ嶽大合戦の図』 (歌川豊宣画)

秀吉方で功名をあげた兵のうち以下の7人は後世に賤ヶ岳の七本槍しずがたけ の しちほんやり)と呼ばれる。実際に感状を得、数千石の禄を得たのは桜井佐吉、石川兵助一光も同様である。7人というのは語呂合わせで、『一柳家記』には「先懸之衆」として七本槍以外にも石田三成大谷吉継一柳直盛も含めた羽柴家所属の14人の若手武将が最前線で武功を挙げたと記録されている[5]。後年七本槍は豊臣政権において大きな勢力を持つに至ったが、譜代の有力な家臣をもたなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいえる。福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」(中傷の意図も否定できない)と語ったり、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったなどの逸話が伝えられており、当時から「七本槍」が虚名に近いという認識が広まっていたと推定される。

合戦の性格[編集]

この戦いは柴田勝家、滝川一益と羽柴秀吉、丹羽長秀の織田政権内での主導権争いであると同時に、信長次男北畠信雄と三男神戸信孝の対立でもあった。両者の対立がそのような形をとったことは、戦国時代の幕府の政争が将軍の家督争いという形をとってきたことと相似する[6]。そればかりか、勝家の場合は、備後国鞆ノ浦広島県福山市)にあって京都への帰還をもくろんでいた征夷大将軍足利義昭の擁立も試みていた[6]

この戦いで、一向宗本願寺勢力は秀吉方に与力すると申し出ている。本願寺が加賀の一揆を動員して秀吉に忠節をつくすと申し入れてきたことに対して、秀吉はこれを賞賛し、柴田領の加賀・越前で活躍すれば加賀を本願寺に返還すると応えている。とはいえ、本願寺にそのような力は残っておらず、実際、柴田勝家が一向宗残党を警戒した様子はない。

合戦の影響[編集]

この合戦の結果、多くの織田氏の旧臣が秀吉に接近、臣属するようになった。また、合戦終了の2日後の4月25日6月15日)に秀吉は中国地方の戦国大名・毛利輝元の重臣・小早川隆景に書簡を送り、自軍の勝利に終わったことを報告するとともに、中立状態にあった毛利氏の自らへの服属を暗に促した。戦後処理終了後、秀吉はまもなく畿内の石山本願寺跡に大坂城の築城を開始し、また同年5月には朝廷から従四位下参議に任命された。また、秀吉のもとに徳川家康上杉景勝・毛利輝元・大友義統など各地の戦国大名が相次いで使者を派遣し、戦勝を慶賀し親交を求めたことも秀吉の畿内における権力掌握を象徴した。しかし臣従したとはいえ、丹羽長秀、池田恒興、森長可、蒲生氏郷、堀秀政長谷川秀一などの織田家旧臣が大幅な加増を得ていることも見逃せない事実である。

脚注[編集]

  1. 『南行雑録』
  2. 賤ケ岳合戦:黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文書発見(毎日新聞2013年5月10日)
  3. この急激な行軍速度を成功させた理由については諸説あるが、『川角太閤記』の「近辺の百姓に命じてあらかじめ沿道に松明を点けさせ、握り飯を用意させていた」という説が採用される場合が多い。
  4. クロニック戦国全史(1995)、p.477
  5. 『一柳家記』
  6. 6.0 6.1 戦国乱世を生きる力(2002)、p.270

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]