榎美沙子

提供: Yourpedia
2013年8月16日 (金) 04:00時点におけるFromm (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成:「'''榎 美沙子'''(えのき みさこ 1945年1月23日 - ?)は日本女性解放運動家・薬剤師・薬事評論家。生化学会会員...」)

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

榎 美沙子(えのき みさこ 1945年1月23日 - ?)は日本女性解放運動家・薬剤師・薬事評論家。生化学会会員・内分泌学会会員。婦人性教育協会準備会理事。なお「榎美沙子」はペンネーム。結婚時の本名は木内公子(きうち きみこ)である。旧姓は非公表。

経歴

  • 徳島県出身。京都大学薬学部卒業。在学中に薬学部の同級生と学生結婚。1967年日本テレビアナウンサー村上節子(のち田原総一朗夫人)・朝日新聞記者松井やよりマスコミ関係者によるウーマン・リブ団体「ウルフの会」の結成に参加し活動。1972年6月14日、中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合(略称中ピ連)を結成し代表となる。高田馬場に本部事務所を構え、ピンク色のヘルメットをかぶっての街頭宣伝・デモ活動を行う。不倫している男性のもとに集団で押しかけて吊るし上げる戦闘的な運動スタイルや、マスコミへの積極的な露出で注目を集める。
  • ただ当時のピル副作用が大きく、それ自体が女性の体に悪影響を与え、かつ性病の蔓延を助長するという理由からあまり用いられなくなった。このため運動は下火になり、1975年に中ピ連は解散した。
  • 1977年第11回参議院議員通常選挙に際し、中ピ連を母体として日本女性党を結成し国政進出を図るも失敗。開票日からわずか2日後の同年7月12日、同党は解散。美沙子は派手な衣服を身にまとい独特の選挙運動を行ったが、自身は選挙に立候補せず、「代表者が国民の審判を受けないのはおかしい」と選挙期間中からその態度に疑問の声が上がった。とりわけこの選挙に立候補し落選した俵萌子東京都選挙区から革新自由連合公認で立候補し落選)や吉武輝子全国区無所属で立候補し落選)ら別の女性解放運動家からは「なぜあなたは国民の審判を受けなかったのか」「あなたのせいで日本の女性解放運動は大きな誤解を受けた。嘲笑の的になった」「男性を排除しようというあなた方の主張は間違っている。日本女性党のおかしな運動のせいで私達の主張が有権者に伝わらなかったことが残念」と厳しく批判された。またピル解放によって利益を得る製薬会社政治家との関係が暴かれたとされるスキャンダルも取り沙汰され要出典城戸嘉世子ら日本女性党の同志の信望も失い、失脚した。

その後のエピソード

美沙子の活動は日本社会にウーマンリブ運動の存在を初めて知らしめたものとの評価もあるが、世間には美沙子の奇矯なイメージのみが残った。

同じく薬剤師であった夫は美沙子の一連の活動に一切口を挟まず黙って見ていたが、選挙惨敗・日本女性党解散時のインタビューで「これで目が覚めただろう。選挙に出たので妻には莫大な借金がある。しっかり働かせて全額返済させる」と語り、美沙子も「以後、夫に尽くします」と家庭に入る。以後美沙子は夫の指示の下、主婦と薬剤師業に専念することになった。美沙子はそれまでの主張とは全く正反対の立場に置かれるという皮肉な結末を迎えた。借金完済後は夫に家を追い出され、離婚。美沙子は京都市内にアパートを借りて一人暮らしを始め、更に数年後司法試験を目指して法律の勉強をしているという情報が週刊誌に取り上げられた。しかしその後司法試験を受験した形跡はなく、ついに消息も不明となった。親族もその行方を知らないという。

著書

  • 『ピル』 カルチャー出版社 1973年
  • 『ピルの本』(ムーブックス) 大陸書房 1976年

共訳書

  • 『女から女たちへ アメリカ女性解放運動レポート 』 S・ファイアストーン編 ウルフの会訳 合同出版 1976年