児玉源太郎

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{{基礎情報 軍人 | 氏名 = 児玉源太郎 | 各国語表記 = | 生年月日 = [[1852年]][[4月14日]] | 没年月日 = [[1906年]][[7月23日]] | 画像 = Gentaro Kodama 2.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 児玉源太郎 | 渾名 = | 生誕地 = [[周防国]]都濃郡[[徳山村 (山口県)|徳山村]](現・山口県[[周南市]]) | 死没地 = [[東京都]] | 所属政体 = {{JPN1889}} | 所属組織 = {{IJARMY}} | 軍歴 = [[1869年]]-[[1907年]] | 最終階級 = [[陸軍大将]] | 指揮 = [[陸軍大臣]]、[[参謀本部_(日本)|参謀総長]] | 部隊 = | 戦闘 = [[佐賀の乱]]<br/>[[神風連の乱]]<br/>[[西南戦争]]<br/>[[日清戦争]]<br/>[[日露戦争]] | 戦功 = | 賞罰 = [[正二位]]・[[勲一等]]・[[功一級]] | 除隊後 = | 廟 = }} '''児玉源太郎'''('''こだま げんたろう''', [[嘉永]]5年閏[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]([[1852年]][[4月14日]]) - [[明治]]39年([[1906年]])[[7月23日]])は、[[日本]]の[[武士]]、[[陸軍]][[軍人]]。[[陸軍大将]][[正二位]][[勲一等]][[功一級]][[子爵]](なお、'''兒玉 源太郞'''の表記もある。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体<ref>学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書などにおける歴史人物としての表記は「児玉源太郎」、『職員録』など存命中の刊行物における表記は正字体に統一の慣例により「兒玉源太郎」、御署名原本における大臣副書の署名は「児玉源太郎」である。</ref>)。 == 生涯・人物 == <!--当ページでは『児玉源太郎』の表記で統一されています。『兒玉 源太郞』の表記にしたいのならば、ノートで議論してからにしてください--> [[嘉永]]5年([[1852年]])、[[周防国]]都濃郡徳山村(現・[[山口県]][[周南市]])に、長州藩の支藩「[[徳山藩]]」の中級武士(百石)[[児玉半九郎]]の長男として生まれる。父とは5歳で死別し、姉である[[兒玉久子|久子]]の婿で家督を継いだ[[兒玉次郎彦|児玉次郎彦]]に養育された。しかし、源太郎が13歳のときこの義兄は佐幕派のテロにより惨殺され、家禄を失った一家は困窮した。 [[明治]]元年([[1868年]])初陣。下士官として函館戦争に参加した後,陸軍に入隊する。明治7年([[1874年]])の[[佐賀の乱]]には[[大尉]]として従軍したが戦傷を受けている。 [[熊本鎮台]]准参謀時の[[明治]]9年([[1876年]])には[[神風連の乱]]鎮圧、同鎮台参謀副長([[少佐]])時の明治10年([[1877年]])には[[西南戦争]]・[[熊本城]]籠城戦に参加。鎮台司令長官の[[谷干城]]少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。この経験が後の日露戦争に生かされる事となる。 [[台湾総督]]時代(1898-1906年)には、[[日清戦争]]終了後の防疫事務で才能を見いだした[[後藤新平]]を総督府民政長官に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した。後藤は[[台湾人]]を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して弾圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。二人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。 [[東郷平八郎]]、[[乃木希典]]らと共に[[日露戦争]]の英雄として有名である。日露戦争全体の戦略の立案、満州での実際の戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、欧州での帝政ロシアへの革命工作、といったあらゆる局面で彼が登場する。当時のロシアは常備兵力で日本の約15倍、国家予算規模で日本の約8倍という当時世界一の超大国であり、日本側にとって圧倒的不利な状況であったが、それを覆して日本を勝利に導いた功績は高く評価されている。また、児玉ケーブルと言われる海底ケーブルを日本周辺に張り巡らしたことで、現代戦で最も重要と言われる情報のやり取りを迅速に行えるようにした<ref>石原藤夫著『国際通信の日本史---植民地化解消への九十九年』東海大学出版会、[[1999年]]、ISBN 4-486-01482-0</ref>。このことで、日本連合艦隊は、大本営と電信通信が可能となって、大本営が自在に移動命令を出せるため、日本海海戦のためだけに、全軍が集結することが可能になった。アメリカ国防総省を中心に唱えられている最新の軍事ドクトリンの一つ[[ネットワーク中心の戦い]](Network-centric warfare,NCW)を100年も前に実現させて、日本海海戦の大勝利をもたらした功績もきわめて大きい。 日露戦争開戦前には台湾総督のまま、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]を務めていたが、 明治36年([[1903年]])に対露戦計画を立案していた参謀次長の[[田村怡与造]]が死去し、[[大山巌]]参謀総長から特に請われて降格人事でありながら、両職を辞して田村の後任を引き受ける。日本陸軍が解体する昭和20年([[1945年]])まで、降格人事を了承した人物は児玉ただ一人である。日露戦争のために新たに編成された[[満州軍_(日本軍)|満州軍]]総参謀長をも引き続いて務め、[[旅順攻囲戦]]においては、満州軍総司令官大山巌の承認を得て[[第3軍_(日本軍)|第3軍]]司令官・乃木希典大将の[[指揮権]]に介入し、作戦を成功に導いたとされる。しかし、旅順陥落直前に督戦に訪れたことは事実であるが、児玉の指揮権介入のエピソードが広く知られるきっかけとなった[[司馬遼太郎]]の[[小説]]『[[坂の上の雲]]』以前に、そのような経緯の記録は世間一般にはあまり知られていなかった。 一般に知られている説によれば、明治37年([[1904年]])12月5日、児玉は乃木が攻めあぐねていた[[203高地]]に対し火力の集中という要塞攻撃の常道を行うため、もともと海岸防衛用の恒久据え付け砲で移動が困難な[[二十八糎砲|28センチ榴弾砲]]を、敵陣に接近した場所まで1日で配置転換を行うという奇抜な作戦を取ったとされる。そして砲撃と突撃隊の突撃を同時に行い、半日で陥落させた。さらに203高地に弾着観測所を設置し、砲兵の専門家の助言<ref>専門家の指摘は以下のとおりである。<br />重厚な装甲が施された艦からの報復射撃がされた場合、無防備の観測点及び榴弾砲陣地は一方的に損害を受ける恐れがある。従って、それ相応の防御陣地を構築してから射撃を行う必要がある。 これに対して児玉は、反撃の機会を与えず砲弾を撃ち込み続ければ、反攻能力を失わせることが可能であると考え、これを実行した。結果的には、すでに[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]後に多くの砲を陸揚げしていた敵艦からの効果的な反撃は無かった。</ref>を無視して203高地越えに旅順湾内のロシア旅順艦隊に28センチ砲で砲撃を加え、敵艦は旅順湾街に降り注ぐ砲弾を少なくするため次々と自沈し壊滅した。これにより露西亜の太平洋第二・三艦隊(所謂バルチック艦隊)は単独で日本の連合艦隊と戦わざるを得なくなり、旅順攻囲戦の目的は達成された。[[旅順要塞]]のロシア軍は203高地陥落を境に弱体化し、この1ヶ月後に降伏する。 児玉は国際情勢や各国の力関係を考慮に入れて戦略を立てることの出来る広い視野の持ち主であった。性格的には情に脆く友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。しかし天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。また、彼は己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木希典に対する尊敬の念を終生抱き続けたと思われる。 児玉は日露戦争勝利のために心血を注ぎ込んだともいわれ、戦争終結8ヶ月後、[[脳溢血]]で急逝した。享年55。 == 経歴 == ※明治5年までは旧暦 * [[慶応]]元年([[1865年]])[[7月13日_(旧暦)|7月13日]]:[[周防国]][[徳山藩]]中小姓となり、源太郎忠精を称す。 * [[明治]]元年([[1868年]])[[9月22日_(旧暦)|9月22]]日:献効隊半隊士令として初陣。 * 明治2年([[1869年]])[[8月1日_(旧暦)|8月1日]]:[[兵部省#兵部省 (明治時代)|兵部省]]御雇として仕官。 * 明治3年([[1870年]]) ** [[6月2日_(旧暦)|6月2日]]:大隊第六等下士官となる。 ** [[12月10日_(旧暦)|12月10日]]:陸軍権曹長に任官。 * 明治4年([[1871年]]) ** [[4月15日_(旧暦)|4月15日]]:陸軍准少尉に昇任し、歩兵第3連隊第2大隊副官となる。 ** [[8月6日_(旧暦)|8月6日]]:[[陸軍少尉]]に昇任。 ** [[9月21日_(旧暦)|9月21日]]:[[陸軍中尉]]に昇任。 * 明治5年([[1872年]]) ** [[6月17日_(旧暦)|6月17日]]:歩兵第19番大隊副官に異動。 ** [[7月25日_(旧暦)|7月25日]]:[[陸軍大尉]]に昇任。 ** 8月1日:[[大阪鎮台]]地方司令副官心得に異動。 * 明治6年([[1873年]]) ** [[3月17日]]:大阪鎮台歩兵第1大隊近衛へ編入異動。 ** [[10月9日]]:歩兵科二等となる。 * 明治7年([[1874年]]) ** 3月:[[正七位]]に叙位。 ** [[8月28日]]:[[熊本鎮台]]准官参謀に異動。 ** [[10月19日]]:[[陸軍少佐]]に昇任。 * 明治10年(1877年)2月:[[西南戦争]]。[[熊本城]]に籠城。 * 明治11年([[1878年]]) ** [[1月31日]]:[[勲四等]]に叙勲。 ** [[2月25日]]:熊本鎮台参謀副長から近衛局に異動。 ** [[12月9日]]:勲功調査御用掛兼務。 * 明治13年([[1880年]]) ** [[4月30日]]:陸軍[[歩兵]][[中佐]]に昇任。[[東京鎮台]]歩兵第2連隊長兼佐倉営所司令官に異動。 ** [[5月28日]]:[[正六位]]に昇叙。 * 明治16年([[1883年]]) ** [[2月6日]]:陸軍歩兵大佐に昇任。 ** [[4月18日]]:[[従五位]]に昇叙。 * 明治18年([[1885年]]) ** [[4月7日]]:[[勲三等]][[旭日中綬章]]を受章。 ** [[5月26日]]:[[参謀本部_(日本)|参謀本部]]管東局長に異動。 ** [[7月24日]]:参謀本部第一局長に異動。 * 明治19年([[1886年]])[[9月30日]]:[[陸軍大学校]]幹事兼任。 * 明治20年([[1887年]]) ** [[6月3日]]:監事部参謀長に異動。 ** [[10月24日]]:陸軍大学校長を兼任。 * 明治22年([[1889年]]) ** [[8月24日]]:[[陸軍少将]]に昇任。 ** [[9月27日]];[[従四位]]に昇叙。 * 明治25年([[1892年]])[[8月23日]]:[[陸軍次官]]兼[[陸軍省]]軍務局長に異動。 * 明治26年([[1893年]])[[4月12日]]:陸軍省法官部長に異動。 * 明治27年([[1894年]]) ** [[10月26日]]:[[正四位]]に昇叙。 ** [[12月26日]]、[[勲二等]][[瑞宝章]]を受章。 * 明治28年([[1895年]]) ** [[3月25日]]:大総督府派遣中大本営陸軍参謀に異動。 ** [[4月1日]]:臨時陸軍検疫部長を兼帯。 ** [[6月29日]]:臨時台湾電信建設部長兼臨時台湾燈標建設部長に異動。 ** [[8月20日]]:[[男爵]]を受爵。 ** [[11月14日]]:臨時広島軍用水道施設部長を兼帯。 * 明治29年([[1896年]])[[10月14日]]:[[陸軍中将]]に昇任。 * 明治31年([[1898年]]) ** [[1月4日]]:[[第3師団_(日本)|第3師団]]長に異動。 ** [[2月26日]]:[[台湾総督]]に異動。 ** [[3月8日]]:[[従三位]]に昇叙。 * 明治32年([[1899年]])[[12月27日]]:[[勲一等]]瑞宝章を受章。 * 明治33年([[1900年]])[[12月23日]]:[[第4次伊藤内閣]]の[[陸軍大臣]]を兼任。 * 明治34年([[1901年]])[[4月20日]]:[[正三位]]に昇叙。 * 明治35年([[1902年]]) ** [[2月27日]]:[[旭日大綬章]]を受章。 ** [[3月27日]]:陸軍大臣辞任。 * 明治36年([[1903年]]) ** [[7月15日]]:[[第1次桂内閣]]の[[内務大臣_(日本)|内務大臣]]を兼任。 ** [[7月17日]]:[[文部大臣]]を兼任。 ** [[9月22日]]:文部大臣の兼務を免ず。 ** [[10月12日]]:参謀本部次長を兼任。内務大臣を免ず。 * 明治37年([[1904年]]) ** [[6月6日]]:[[陸軍大将]]に昇任。 ** [[6月20日]]:[[満州軍_(日本軍)|満州軍]]総参謀長を兼帯。 * 明治38年([[1905年]])[[12月20日]]:参謀次長事務取兼帯。 * 明治39年([[1906年]]) ** [[4月1日]]:[[功一級]][[金鵄勲章]]と[[旭日桐花大緩章]]を受章。 ** [[4月11日]]:台湾総督・参謀次長事務取扱から[[参謀総長]]に異動。[[子爵]]を受爵。 ** [[4月23日]]:[[従二位]]に昇叙。 ** [[7月23日]]:[[正二位]]に昇叙。 * 明治40年([[1907年]])[[10月2日]]:家督相続者[[児玉秀雄]]に対して、父源太郎の勲功により[[伯爵]]を授爵。 == エピソード == *[[神風連の乱]]鎮圧の直後、東京から現地へ真っ先に送られた電報「児玉少佐ハ無事ナリヤ」は、当時24歳の一少佐にかける期待がどれほどのものであったかを物語る逸話として有名。 *日本軍の参謀育成の為、教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校の[[クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル]]から才覚を高く評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本にコダマ将軍が居る限り心配は要らない。コダマは必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたという。 *児玉と乃木は旧知の間柄であった。[[千葉県]]佐倉東京[[鎮台]]第二[[連隊]]長時代、演習で乃木(同第一連隊長)の指揮する部隊を児玉の部隊が[[奇襲]]によって大いに破った時、部下に「気転の利かぬ野狐を七分小玉で打ち上げた」と歌わせ、乃木をからかったという。「気転」は乃木の名「希典」の音読み、「野狐」は「ノギ(乃木)ツネ」。「七分小玉」は小さな[[花火]]のことで、身長の低かった児玉が「一寸に満たないほど小さい小玉(児玉)」と自分自身をもじったものであるとされる。 *児玉は乃木の軍事的才能の限界を認識しながら、一方で軍人精神と明治人の美意識の体現者として尊敬の念を持っていたともいわれる。日露戦争終結後、旅順攻略における人的被害の大きさから陸軍部内でも乃木を非難する声が上がったが、児玉は「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と一貫して乃木を擁護したという。児玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして棺に付き添う乃木の姿が見られたと伝えられる。 *晩年、[[浅草]]の[[凌雲閣]](通称十二階)で開催された日露戦争展で、小柄な児玉を[[ナポレオン]]に準えて語り合う二人の陸軍将校の傍に歩き寄り「児玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁きかけながら立ち去り、「何を言うか」と振り向いた彼らが児玉本人だと分かって驚く様を見て楽しむと言うというお茶目な面もあった。 *[[神奈川県]][[藤沢市]][[江ノ島]]および[[山口県]][[周南市]]にある[[児玉神社]]は、彼を祀ったもの。 == 陸軍幼年学校との関連 == 上記の華々しいばかりの戦績に加え戦後すぐ急逝したため、日露戦争後に軍備拡張・軍国主義化していく日本と距離をおかれた印象があり、一般的な評価は現代においても好意的である(戦後すぐに議論された陸軍の拡大について「国力に見合っていない」と一貫して反対している)。しかし近年発刊された野邑理栄子著『陸軍幼年学校体制の研究』(吉川弘文館、2006年)等によれば、児玉が明治25年に執筆・報告した「欧州巡回報告書」が[[陸軍幼年学校]]と深く関わりをもつことが指摘されている。それによると、彼は[[ドイツ]]における軍人教育が[[ドイツ皇帝|皇帝]]への絶対的な臣従を旨としていることに感銘を受け、日本においてもそれを推進すべきであると主張していたと述べている。また、[[成城学校]](現、成城中・高等学校)校長を務めるなど、優秀な軍人を育てることに貢献した。 == 系譜 == === 系図 === *'''児玉氏'''[[家紋]]は二文字に三つ星。 <pre> 源太郎━━┳秀雄=忠康━━━━┳健      ┣貞雄=信男    ┣進      ┣友雄       ┣実      ┣常雄   ┗博      ┣国雄      ┣ヌイ      ┣ヨシ      ┣仲子      ┣八郎      ┣九一      ┣モト      ┗ツル </pre> === 家族・親族 === 長男は[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]で[[国務大臣]]などを歴任してきた[[児玉秀雄]]、三男[[児玉友雄]]は[[陸軍中将]]、九男の[[児玉九一]]は内務官僚で[[厚生省|厚生]][[次官]]、三女のナカは[[穂積重遠]]の妻、四女のモトは[[藤田嗣雄]]([[藤田嗣治|嗣治]]の兄で[[法制史|法制史学者]])の妻、五女のツルは[[木戸幸一]]の妻、曾孫の[[児玉進]]は[[映画監督]]・[[テレビ映画]]監督。 ==児玉源太郎を演じた人物== *[[丹波哲郎]]-映画「[[二百三高地]]」、-テレビドラマ「[[静寂の声]]」 *[[近藤洋介 (俳優)|近藤洋介]]-テレビドラマ「[[二百三高地]]」 *[[光岡湧太郎]]-『[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]』・[[1990年]]・NHK大河ドラマ *[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]-テレビドラマ「[[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]]」 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == *[[児玉氏]] ==参考文献== 本項に限り、「児玉」「兒玉」の表記は、著者がどちらを用いていたのかに従う。 * [[杉山茂丸]]『兒玉大将伝』[[博文館]]、1918年。[[中公文庫]]、1989年。ISBN 4-12-201639-8 盟友による回想伝記 * 生出寿『知将児玉源太郎---ある名補佐役の生涯』[[光人社]]、1986年7月。ISBN 9784769803171 * 古川薫『天辺の椅子---日露戦争と児玉源太郎』[[毎日新聞社]]、1992年11月、ISBN 4-620-10464-7。[[文春文庫]]、1996年、 ISBN 9784167357115 * 日本博学倶楽部『日露戦争・あの人の「その後」』[[PHP研究所|PHP文庫]]、2004年4月。ISBN 9784569661698 * 中村謙司『史論児玉源太郎---明治日本を背負った男』[[光人社]]、2006年8月。ISBN 9784769813149 * [[兵頭二十八]]『日本の戦争Q&A』[[光人社]]、2008年1月。ISBN 978-4-7698-1374-3。著者希望の原題は『兒玉源太郎は正しかったか---奇襲開戦主義と半島防衛』。[http://sorceress.raindrop.jp/blog/2007/12/#a000838] * [[別宮暖朗]]『「坂の上の雲」では分からない日露戦争陸戦---児玉源太郎は名参謀ではなかった』並木書房、2009年10月。ISBN 978-4890632497 ==外部リンク== *[http://www.chukyo-u.ac.jp/reserch/irss/taiwan/ 中京大学 社会科学研究所 台湾研究部会] *[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/77.html?c=7 児玉源太郎肖像] *[http://www.ndl.go.jp/portrait/contents/index.html 近代日本人の肖像]([[国立国会図書館]]) *[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/a_kodama.html 児玉氏系譜] *[http://book.jorudan.co.jp/cgi-bin/browse.cgi?action=7&param=nuuuuuan3u1xxx7n4n6 近代未満の軍人たち ~兒玉源太郎~] - [[兵頭二十八]] *[http://purunus.com/index.php/%E5%85%90%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E 児玉源太郎] - [http://www.purunus.com/index.php/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 Purunus DB] {{先代次代|[[陸軍大臣]]|第8代:1900年 - 1902年|[[桂太郎]]|[[寺内正毅]]}} {{先代次代|[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]|1906年|[[大山巌]]|[[奥保鞏]]}} {{先代次代|[[台湾総督]]|第4代:1898年 - 1906年|[[乃木希典]]|[[佐久間左馬太]]}} {{先代次代|[[内務大臣 (日本)|内務大臣]](兼任)|第21代:1903年 - 1903年|[[内海忠勝]]|[[桂太郎]]}} {{先代次代|[[文部大臣]](兼任)|第19代:1903年 - 1903年|[[菊池大麓]]|[[久保田譲]]}} {{陸軍大臣}} {{文部科学大臣}} {{内務大臣}} {{DEFAULTSORT:こたま けんたろう}} [[Category:日本の陸軍軍人]] [[Category:日本の子爵]] [[Category:日本の閣僚経験者]] [[Category:台湾総督]] [[Category:山口県出身の人物]] [[Category:戊辰戦争の人物]] [[Category:西南戦争の人物]] [[Category:日露戦争の人物]] [[Category:日本の神 (人物神)]] [[Category:1852年生]] [[Category:1906年没]]