「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」の版間の差分

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'''ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン'''(独: '''Ludwig van Beethoven''')、1770年12月16日ごろ<ref>[[洗礼]]を受けたのが12月17日であることしかわかっていない。</ref> - 1827年3月26日)は、[[ドイツ]]の[[作曲家]]。クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人とされる。その作品は[[古典派音楽]]の集大成かつ[[ロマン派音楽]]の先駆けとされている。
 
'''ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン'''(独: '''Ludwig van Beethoven''')、1770年12月16日ごろ<ref>[[洗礼]]を受けたのが12月17日であることしかわかっていない。</ref> - 1827年3月26日)は、[[ドイツ]]の[[作曲家]]。クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人とされる。その作品は[[古典派音楽]]の集大成かつ[[ロマン派音楽]]の先駆けとされている。
  
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1770年12月17日ごろ、[[神聖ローマ帝国]][[ケルン大司教]]領(現[[ドイツ]]領)の[[ボン]]で父ヨハン、母マリア・マグダレーナの長男として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた祖父ルートヴィヒの支援により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷[[歌手]]であったが無類の酒好きであったため収入は少なく、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、苛烈を極める[[音楽]]の[[教育]]を受けることとなり、1778年には[[ケルン]]での演奏会に出演し、1782年より[[クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ]]に師事した。
 
1770年12月17日ごろ、[[神聖ローマ帝国]][[ケルン大司教]]領(現[[ドイツ]]領)の[[ボン]]で父ヨハン、母マリア・マグダレーナの長男として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた祖父ルートヴィヒの支援により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷[[歌手]]であったが無類の酒好きであったため収入は少なく、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、苛烈を極める[[音楽]]の[[教育]]を受けることとなり、1778年には[[ケルン]]での演奏会に出演し、1782年より[[クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ]]に師事した。
  
1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていた[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]に弟子入りを申し入れ、モーツァルトにその才能を認められ弟子入りを許されたが、最愛の母マリアの病状悪化の報を受けボンに戻った。母はまもなく死亡し、母の死後は、[[アルコール依存症]]となり失職した父に代わり仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。
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1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていた[[モーツァルト]]に弟子入りを申し入れ、その才能を認められ弟子入りを許されたが、最愛の母マリアの病状悪化の報を受けボンに戻った。母はまもなく死亡し、母の死後は、[[アルコール依存症]]となり失職した父に代わり仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。
  
 
1792年7月、[[ロンドン]]から[[ウィーン]]に戻る途中[[ボン]]に立ち寄った[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]に才能を認められ弟子入りを許可され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの[[即興演奏]]の名手([[ヴィルトゥオーソ|ヴィルトゥオーゾ]])として名声を博した。
 
1792年7月、[[ロンドン]]から[[ウィーン]]に戻る途中[[ボン]]に立ち寄った[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]に才能を認められ弟子入りを許可され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの[[即興演奏]]の名手([[ヴィルトゥオーソ|ヴィルトゥオーゾ]])として名声を博した。
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== 作風 ==
 
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=== 初期 ===
 
=== 初期 ===
作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、[[ハイドン]]、[[モーツァルト]]の強い影響下にあるためとの指摘もある<ref>淺香淳編『標準音楽辞典』音楽之友社、1981年、1106-1107頁</ref>。
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作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、[[ハイドン]]、モーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある<ref>淺香淳編『標準音楽辞典』音楽之友社、1981年、1106-1107頁</ref>。
  
 
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身長は167センチメートル前後と西洋人にしては小柄ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、[[天然痘]]の痕で酷く荒れており、決してハンサムとはいえなかったが、表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与えた。服装には無頓着で、若い頃の服装はエレガントであったが、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子の[[チェルニー]]は初めてベートーヴェンに会った時、「[[ロビンソン・クルーソー]]のよう」という感想を抱いたし、作曲に夢中になって無帽で歩いていたため浮浪者と誤認逮捕され、ウィーン市長が謝罪する、という珍事が起こったこともある。部屋の中は乱雑さを極めていたが、風呂と洗濯は好み、また生涯で少なくとも70回以上引越しを繰り返したことでも知られている。当時のウィーンでは、ベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、にもかかわらず、どの作曲家よりも尊敬されていたという。
 
身長は167センチメートル前後と西洋人にしては小柄ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、[[天然痘]]の痕で酷く荒れており、決してハンサムとはいえなかったが、表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与えた。服装には無頓着で、若い頃の服装はエレガントであったが、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子の[[チェルニー]]は初めてベートーヴェンに会った時、「[[ロビンソン・クルーソー]]のよう」という感想を抱いたし、作曲に夢中になって無帽で歩いていたため浮浪者と誤認逮捕され、ウィーン市長が謝罪する、という珍事が起こったこともある。部屋の中は乱雑さを極めていたが、風呂と洗濯は好み、また生涯で少なくとも70回以上引越しを繰り返したことでも知られている。当時のウィーンでは、ベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、にもかかわらず、どの作曲家よりも尊敬されていたという。
  
性格は矛盾に満ちていて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷になるなど気分の揺れが激しかった。生来の情愛の深さも、無遠慮さのため傲慢で野蛮で非社交的という評判であった。師[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]に、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねたり、パトロンのリヒノフスキー侯爵には「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送ったり(1812年)、またテプリツェで[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]と共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈奔放な人柄だ」と評した。
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性格は矛盾に満ちていて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷になるなど気分の揺れが激しかった。生来の情愛の深さも、無遠慮さのため傲慢で野蛮で非社交的という評判であった。師[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]に、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねたり、パトロンのリヒノフスキー侯爵には「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送ったり(1812年)、またテプリツェで[[ゲーテ]]と共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈奔放な人柄だ」と評した。
  
 
[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]]の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、[[ピアノソナタ第17番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第17番]]が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、「ベートーヴェンの無給の秘書」を自称する[[アントン・シンドラー]]の著したものが多い。しかし、この人物は偽りが多く、ベートーヴェンの死後、自分の立場が有利になるよう資料を破棄したり改竄を加えたりしており、それらの逸話にはほとんど信憑性が認められていない。
 
[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]]の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、[[ピアノソナタ第17番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第17番]]が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、「ベートーヴェンの無給の秘書」を自称する[[アントン・シンドラー]]の著したものが多い。しかし、この人物は偽りが多く、ベートーヴェンの死後、自分の立場が有利になるよう資料を破棄したり改竄を加えたりしており、それらの逸話にはほとんど信憑性が認められていない。

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ベートーベン
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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven)、1770年12月16日ごろ[1] - 1827年3月26日)は、ドイツ作曲家。クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人とされる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。

生涯[編集]

1770年12月17日ごろ、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンで父ヨハン、母マリア・マグダレーナの長男として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた祖父ルートヴィヒの支援により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手であったが無類の酒好きであったため収入は少なく、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、苛烈を極める音楽教育を受けることとなり、1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトに弟子入りを申し入れ、その才能を認められ弟子入りを許されたが、最愛の母マリアの病状悪化の報を受けボンに戻った。母はまもなく死亡し、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められ弟子入りを許可され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として名声を博した。

20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり)が徐々に悪化、26歳の頃には中途失聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』を記し自殺も考えたが、強靭な精神力をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての「傑作の森」(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。

40代に入ると、難聴が次第に悪化し、晩年の約10年はほぼ聞こえない状態にまで陥った。また神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、非行に走ったり自殺未遂を起こすなどしたカールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で作られた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。

1826年12月に肺炎を患ったことに加え黄疸も発症するなど病状が急激に悪化、病床に臥す。10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が駆けつけるという異例のものとなった。

死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近いが検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に被曝したかについても諸説あり、ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説や1826年の1月から肝障害による腹水の治療を行ったAndreas Wawruch医師が腹部に針で穴を開けて腹水を排水した時、腹部に穴を開けるたびに髪の毛の解析では鉛濃度が高くなっていることから、傷の消毒のために使用された鉛ではないかとする説などがある。

作風[編集]

初期[編集]

作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドン、モーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[2]

中期[編集]

1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、徹底して形式的・法則的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。

中期の交響曲スケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。

後期[編集]

1818年の二度目の危機の時にはスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲フーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ交響曲第9番、『荘厳ミサ曲』、『ディアベリ変奏曲』などの音楽の後期の代表作が作られた。

後世の音楽家への影響と評価[編集]

ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。「音楽家芸術家」であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。

中でもワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声調性を拡大した。

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。

思想[編集]

ベートーヴェンはカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。

また、同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される美学からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文学ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルトなどから影響を受けた。また哲学者カントの思想に接近し、カントの講義に出席する事も企画していたといわれ、カントの美学をベートーヴェンは体現したともいわれる[3]

政治思想的には自由主義者で、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。

その他、天文学についての書物を深く読み込んでおり、ボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時においてかなりの教養人であった。

人物[編集]

身長は167センチメートル前後と西洋人にしては小柄ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の痕で酷く荒れており、決してハンサムとはいえなかったが、表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与えた。服装には無頓着で、若い頃の服装はエレガントであったが、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のチェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」という感想を抱いたし、作曲に夢中になって無帽で歩いていたため浮浪者と誤認逮捕され、ウィーン市長が謝罪する、という珍事が起こったこともある。部屋の中は乱雑さを極めていたが、風呂と洗濯は好み、また生涯で少なくとも70回以上引越しを繰り返したことでも知られている。当時のウィーンでは、ベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、にもかかわらず、どの作曲家よりも尊敬されていたという。

性格は矛盾に満ちていて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷になるなど気分の揺れが激しかった。生来の情愛の深さも、無遠慮さのため傲慢で野蛮で非社交的という評判であった。師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねたり、パトロンのリヒノフスキー侯爵には「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送ったり(1812年)、またテプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈奔放な人柄だ」と評した。

交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、「ベートーヴェンの無給の秘書」を自称するアントン・シンドラーの著したものが多い。しかし、この人物は偽りが多く、ベートーヴェンの死後、自分の立場が有利になるよう資料を破棄したり改竄を加えたりしており、それらの逸話にはほとんど信憑性が認められていない。

死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスウィックやその妹ヨゼフィーネ等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモンらが提唱するアントニア・ブレンターノ(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。

メトロノームを初めて利用した音楽家だといわれている。

名前[編集]

原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən]、英語ではルードゥウィグ・ヴェン・ベイト(ホ)ウヴァン [luːdwɪg væn beit(h)ouvən] といった発音をされる。中国では外来語の v を f または w の異音と見なすので、「貝多芬 (Beiduofen)」となる。

日本でも明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、程なく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナー、ヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。

姓に "van" がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク (van Dyck)、ファン・エイク (van Eyck)、ファン・ゴッホ (van Gogh) などがいる。vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す "von"(フォン)と間違われることが多い。"van" は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、"van Beethoven" という姓は「ビート (Beet) 農場 (Hoven) 主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。

偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることが多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。

親族[編集]

  • 祖父:ルートヴィヒ(同姓同名)
    フランドル地方・メヘレン出身。ケルン大司教選帝侯)クレメンス・アウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。
  • 祖母:マリア・ヨゼファ
  • 父:ヨハン
  • 母:マリア・マグダレーナ ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。
  • 弟:カスパール・アントン・カール
    • 甥:カール カスパールの息子。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。
  • 弟:ニコラウス・ヨーハン

弟子[編集]

代表作[編集]

詳細は ベートーヴェンの楽曲一覧 を参照

交響曲(全9曲)[編集]

管弦楽曲[編集]

協奏曲、協奏的作品[編集]

室内楽曲[編集]

ピアノ曲[編集]

ピアノソナタ全32曲)  

その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)

オペラ・劇付随音楽・その他の声楽作品[編集]

宗教曲[編集]

歌曲[編集]

  • アデライーデ Op.46
  • 汝を愛す
  • 鶉の鳴き声
  • 新しい愛、新しい生
  • 口づけ
  • 追憶
  • 懺悔の歌
  • モルモット(旅芸人)
  • 連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』 Op.98
  • 曇りのち、快晴

著作[編集]

ベートーヴェンによる著作物で翻訳のあるものは以下の通りである。

  • 小松雄一郎訳編『音楽ノート』岩波文庫、1957
  • J.シュミット=ゲールグ編『ベートーヴェンの恋文 新たに発見されたダイム伯夫人への13通』属啓成訳、音楽之友社、1962
  • 『ハイリゲンシュタットの遺書』属啓成訳、音楽之友社、1967
  • 小松雄一郎訳編『ベートーヴェン書簡選集(上下巻)』音楽之友社、1978 - 1979
  • 小松雄一郎編訳『新編ベートーヴェンの手紙(上下巻)』岩波文庫、1982
  • メイナード・ソロモン編『ベートーヴェンの日記』青木やよひ、久松重光訳、岩波書店、2001
  • 『わが不滅の恋人よ』ジークハルト・ブランデンブルク解説、沼屋譲訳、日本図書刊行会、2003

伝記[編集]

ベートーヴェンの伝記は多くあるが、1977年に刊行されたメイナード・ソロモンによる『ベートーヴェン』[4]があり、このソロモン版伝記はのち、歴史家のピーター・ゲイによって精神分析的手法による労作と評価された[5]

脚注[編集]

  1. 洗礼を受けたのが12月17日であることしかわかっていない。
  2. 淺香淳編『標準音楽辞典』音楽之友社、1981年、1106-1107頁
  3. 木之下晃・堀内修『ベートーヴェンへの旅』新潮社、1996年、85頁
  4. 邦訳、岩波書店、全二巻
  5. 『歴史学と精神分析』邦訳、岩波書店

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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