「阿倍仲麻呂」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(誤植修正)
(追記 図書館案内)
 
(同じ利用者による、間の2版が非表示)
1行目: 1行目:
'''阿倍仲麻呂'''(あべのなかまろ,701年 - 770年1月)は奈良時代に遣唐留学生として唐に渡り中国の皇帝に使えた人物である。百人一首は阿倍仲麿と表記する。
+
'''阿倍仲麻呂'''(あべのなかまろ,[[701年]] - [[770年]]1月)は奈良時代に遣唐留学生として唐に渡り中国の皇帝に使え、帰国を果たせず唐で没した人物である。百人一首は'''阿倍仲麿'''と表記する。中国では「朝衡」(ちょうこう)と名乗った。中国ではかなり有名な日本人である。
  
 
==概要==
 
==概要==
阿倍仲麻呂は父中務大輔[[安倍舩守]]の子として生まれた。母の名は不詳である。生年には文武3年([[699年]])説と大宝元年([[701年]])説とがある。[[古今和歌集目録]]には靈龜2年8月20日に16歳(数え年齢)で[[遣唐留学生]]として唐に渡ったとされている。靈龜2年は西暦716年であるから、逆算すると大宝元年(701年)生まれとなる。
+
阿倍仲麻呂は父中務大輔[[安倍舩守]]の子として生まれた。母の名は不詳である。生年には文武3年([[699年]])説と大宝元年([[701年]])説の2説がある。[[古今和歌集目録]]には靈龜2年8月20日に16歳(数え年齢)で[[遣唐留学生]]として唐に渡ったとされている。靈龜2年は西暦[[716年]]であるから、逆算すると大宝元年(701年)生まれとなる。
略伝によれば、[[大暦]]五年(770年)正月に73歳で亡くなったとされるので、ここから逆算すると文武3年([[699年]])生まれとなる。近年は大宝元年説が有力であるとされる。唐の[[太学]]への入学には年齢制限があり十四歳以上、十九歳以下である。留学生選定時16歳、渡海時17歳、入学時18歳とすると整合性がある<ref>森公章(2019)『阿倍仲麻呂』吉川弘文館</ref>。
+
略伝によれば、[[大暦]]五年(770年)正月に73歳で亡くなったとされるので、ここから逆算すると文武3年([[699年]])生まれとなる。近年は大宝元年生まれ説が有力であるとされる。唐の[[太学]]への入学には年齢制限があり十四歳以上、十九歳以下である。留学生選定時16歳、渡海時17歳、入学時18歳とすると整合性がある<ref name=mori>森公章(2019)『阿倍仲麻呂』吉川弘文館</ref>。
  
 
==古今和歌集目録==
 
==古今和歌集目録==
22行目: 22行目:
 
阿部仲麻呂は養老2年([[718年]])に18歳で唐の太学に入る。[[721年]]、東宮司経局校書になる。727年頃結婚した可能性がある。天平六年(734年)玄宗皇帝は仲麻呂の帰国を不許可とした。
 
阿部仲麻呂は養老2年([[718年]])に18歳で唐の太学に入る。[[721年]]、東宮司経局校書になる。727年頃結婚した可能性がある。天平六年(734年)玄宗皇帝は仲麻呂の帰国を不許可とした。
 
中国側史料の『楊文公談苑』の記載に「開元中、朝衡なるもの有りて、太学に隷きて挙に応じ、仕えて補闕に至る。国に帰らんことを求む。検校秘書監を授けて放ち帰す。王維及び当時の名輩、皆詩序ありて別を送る。後去くを果たさず。官を歴て、右常侍・安南都督に至る」と書かれている。太学に入学したことは、王維の送別の詩文にも書かれている。
 
中国側史料の『楊文公談苑』の記載に「開元中、朝衡なるもの有りて、太学に隷きて挙に応じ、仕えて補闕に至る。国に帰らんことを求む。検校秘書監を授けて放ち帰す。王維及び当時の名輩、皆詩序ありて別を送る。後去くを果たさず。官を歴て、右常侍・安南都督に至る」と書かれている。太学に入学したことは、王維の送別の詩文にも書かれている。
阿部仲麻呂は唐では朝衡と名乗っている。東宮司経局校書は正九品下相当、「校書」は書物の誤りを訂正する校正担当である。古典を知っていなければ務まらない役職である。
+
阿部仲麻呂は唐では朝衡と名乗っている。東宮司経局校書は正九品下相当、「校書」は書物の誤りを訂正する校正担当である。古典を知っていなければ務まらない役職である<ref name=mori></ref>。
 
==帰国の不許可==
 
==帰国の不許可==
 
天平度遣唐使が来日したとき仲麻呂は老いた父母に孝養をつくしたいからと帰国願を提出したが、玄宗皇帝の許可は得られなかった。略伝に「慕義名空在。愉忠孝不全。報恩無有日。帰國定何年」(義を慕いて名は空しく在り。忠を愉しむも、孝は全からず。報恩は日あることなし。帰國が定まるは何年ならん)とある。皇帝への忠と、親への孝のはざまで苦しむ姿がある。当初の留学計画では帰国の予定であった。
 
天平度遣唐使が来日したとき仲麻呂は老いた父母に孝養をつくしたいからと帰国願を提出したが、玄宗皇帝の許可は得られなかった。略伝に「慕義名空在。愉忠孝不全。報恩無有日。帰國定何年」(義を慕いて名は空しく在り。忠を愉しむも、孝は全からず。報恩は日あることなし。帰國が定まるは何年ならん)とある。皇帝への忠と、親への孝のはざまで苦しむ姿がある。当初の留学計画では帰国の予定であった。
28行目: 28行目:
 
==帰国の試み==
 
==帰国の試み==
 
天宝12 年([[753年]]、仲麻呂 53 歳)には「秘書監」(従三品。秘書省の長官、文筆の官としては最高位)に昇進していた。
 
天宝12 年([[753年]]、仲麻呂 53 歳)には「秘書監」(従三品。秘書省の長官、文筆の官としては最高位)に昇進していた。
天平勝宝5年(753年)、藤原清河を大使とする遣唐使の帰国に同乗して帰国することが許可された。第1船は藤原清河・阿倍仲麻呂、第2船に大伴古麻呂・鑑真、第3船に二度目の渡唐した吉備真備、第4船には布勢人主らが乗船した。53歳になった仲麻呂としては、最後のチャンスと考えた。第1船は最も安全とされていたが、第一船は日本方面まで来たが漂流し、安南(ベトナム)に漂着し、帰国することはできなかった。清河と仲麻呂らは755年に長安に帰還し、その後は唐に仕えた。第2船は11月21日に阿児奈波島(沖縄島)に漂着し、12月7日に益救島(屋久島)、20日に薩摩国阿多郡秋津屋浦に上陸した<ref>唐大和上東征伝(779年)</ref>。第三船は20日に阿児奈波島(沖縄島)に漂着した。益救島(屋久島)を経て、紀伊国太地に漂着した。第4船は途上で船が火災に遭ったが、舵取の川部酒麻呂などにより、鎮火に成功した。754年4月、薩摩国石籬浦(現鹿児島県揖宿郡頴娃町石垣)に漂着し、帰国できた。
+
天平勝宝5年(753年)、[[藤原清河]]を大使とする遣唐使の帰国に同乗して帰国することが許可された。第1船は藤原清河・阿倍仲麻呂、第2船に大伴古麻呂・鑑真、第3船に二度目の渡唐した吉備真備、第4船には布勢人主らが乗船した。53歳になった仲麻呂としては、最後のチャンスと考えた。第1船は最も安全とされていたが、第一船は日本方面まで来たが漂流し、安南(ベトナム)に漂着し、帰国することはできなかった。清河と仲麻呂らは755年に長安に帰還し、その後は唐に仕えた。第2船は11月21日に阿児奈波島([[沖縄島]])に漂着し、12月7日に益救島([[屋久島]])、20日に薩摩国阿多郡秋津屋浦に上陸した<ref>[[唐大和上東征伝]](779年)</ref>。第三船は20日に阿児奈波島(沖縄島)に漂着した。益救島(屋久島)を経て、紀伊国太地に漂着した。第4船は途上で船が火災に遭ったが、舵取の川部酒麻呂などにより、鎮火に成功した。754年4月、薩摩国石籬浦(現鹿児島県揖宿郡頴娃町石垣)に漂着し、帰国できた<ref name=mori></ref>。
 
==古今和歌集==
 
==古今和歌集==
 
『古今和歌集』羇旅歌 406首目に収録されている阿部仲麻呂の和歌。
 
『古今和歌集』羇旅歌 406首目に収録されている阿部仲麻呂の和歌。
36行目: 36行目:
 
また注」に「この歌は、むかし仲麻呂を唐土にもの習わしに遣わしたりけるに、あまたの年を経てえ帰りまうで来ざりけるを、この国より又使まかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとて出で立ちけるに、めいしうといふ所の海辺にてかの国の人餞別(むまのはなむけ)しけり、夜になりて月のいと面白くさしいでたりけるを見て詠めるとなむ語り伝ふる」
 
また注」に「この歌は、むかし仲麻呂を唐土にもの習わしに遣わしたりけるに、あまたの年を経てえ帰りまうで来ざりけるを、この国より又使まかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとて出で立ちけるに、めいしうといふ所の海辺にてかの国の人餞別(むまのはなむけ)しけり、夜になりて月のいと面白くさしいでたりけるを見て詠めるとなむ語り伝ふる」
 
とある。
 
とある。
明州での送別の宴の際に詠まれた歌で、望郷の想いが語られる。送別の開催は753年(天平勝宝5)11月15日のことで、この夜は満月であったという。
+
明州での送別の宴の際に詠まれた歌で、望郷の想いが語られる。送別の開催は[[753年]](天平勝宝5)11月15日のことで、この夜は満月であったという。
 +
==仲麻呂の影響力==
 +
玄宗皇帝は、宮殿の府庫(図書館)を遣唐使の日本使<ref>750年(天平勝宝二年)九月任命</ref>に許可した。案内者は朝衡(仲麻呂)であった。朝衡が玄宗皇帝に願い出て許可を得たと考えられている。君主教殿、老君之経堂、釈典殿宇などくまなく見せ、さらに大使(藤原朝臣清河)、副使(大伴古麻呂)の肖像画を書かせ、送らせた<ref>宮田俊彦(1961)『吉備真備』吉川弘文館</ref>。これは他の遣唐使にはなかったことであり、相当に異例の厚遇といえる。仲麻呂の皇帝への影響力によるものと考えられる。
 +
 
 
==阿倍仲麻呂の記念碑==
 
==阿倍仲麻呂の記念碑==
 
===護国寺===
 
===護国寺===
東京文京区大塚の護国寺の正式名称は「神齢山悉地院大聖護国寺」である。仲麿塚碑がある。銘文に次が記載される。
+
東京文京区大塚の[[護国寺]]の正式名称は「神齢山悉地院大聖護国寺」である。仲麿塚碑がある。銘文に次が記載される。
 
此碑旧在大和国安倍村久没 
 
此碑旧在大和国安倍村久没 
 
蒿莱無人剥蘚者大正十三年
 
蒿莱無人剥蘚者大正十三年
46行目: 49行目:
 
「此の碑、旧は大和国安倍邸に在り。久しく蒿莱(こうらい)に没し、人の蘚を剥ぐ者無し。大正十三年甲子仲秋、斯の地に移し置き、詩を其の陰に題す。箒庵逸人(高橋義雄)」
 
「此の碑、旧は大和国安倍邸に在り。久しく蒿莱(こうらい)に没し、人の蘚を剥ぐ者無し。大正十三年甲子仲秋、斯の地に移し置き、詩を其の陰に題す。箒庵逸人(高橋義雄)」
  
 高橋義雄は実業家で俳人であり数寄者として知られる。箒庵逸人は俳号。著書『箒のあと』下(秋豊園出版部、1836年)で、経緯を書いている。奈良の骨董商の店先で石碑を見つけ購入したという。碑面の文字は温秀高雅で、藤原時代の名家の筆蹟と見た。安倍村は、安倍一族の発祥の地のため、仲麻呂が物故したのち、招魂碑としてこの地に建てたと推測される。東野浩之教授は考古学的見地から7〜8百年前のものとは思えず、江戸時代ではないかとする。江戸時代本居宣長が安永三年(1772年)のこの地を訪れたとき、田の中に「あべの仲まろのつか」があることを記している(『菅傘日記』)。18世紀後半には存在していたと推定される、。
+
 [[高橋義雄]]は実業家で俳人であり数寄者として知られる。箒庵逸人は俳号。著書『箒のあと』下(秋豊園出版部、1836年)で、経緯を書いている。奈良の骨董商の店先で石碑を見つけ購入したという。碑面の文字は温秀高雅で、藤原時代の名家の筆蹟と見た。安倍村は、安倍一族の発祥の地のため、仲麻呂が物故したのち、招魂碑としてこの地に建てたと推測される。[[東野浩之]]教授は考古学的見地から7〜8百年前のものとは思えず、江戸時代ではないかとする。江戸時代本居宣長が安永三年(1772年)のこの地を訪れたとき、田の中に「あべの仲まろのつか」があることを記している(『菅傘日記』)。18世紀後半には存在していたと推定される<ref name=mori></ref>。
  
 
===中国陝西省西安市===
 
===中国陝西省西安市===
 
興慶宮は陝西省西安市にあり、玄宗皇帝の兄弟五人の王子たちの御殿として造営された。728年に興慶宮で公式の政務を執りはじめ、大明宮に代わる唐代の政治の中心地となった。現在の興慶宮には勤政務本楼の遺跡や沈香亭、花萼相輝楼、長慶軒、湖などがある。阿倍仲麻呂記念碑は唐の柱に似せてつくられた漢白玉製の記念碑で、高さ3.6メートル、市内の興慶宮公園の東南隅にある。西安と奈良は、昔はそれぞれの国の首都であったところから、1974年に友好都市となり、奈良市長の提案で、西安と奈良に阿倍仲麻呂記念碑が建立された。西安の記念碑は1979年7月1日に立てられている。
 
興慶宮は陝西省西安市にあり、玄宗皇帝の兄弟五人の王子たちの御殿として造営された。728年に興慶宮で公式の政務を執りはじめ、大明宮に代わる唐代の政治の中心地となった。現在の興慶宮には勤政務本楼の遺跡や沈香亭、花萼相輝楼、長慶軒、湖などがある。阿倍仲麻呂記念碑は唐の柱に似せてつくられた漢白玉製の記念碑で、高さ3.6メートル、市内の興慶宮公園の東南隅にある。西安と奈良は、昔はそれぞれの国の首都であったところから、1974年に友好都市となり、奈良市長の提案で、西安と奈良に阿倍仲麻呂記念碑が建立された。西安の記念碑は1979年7月1日に立てられている。
 +
 +
==科挙に合格したか==
 +
科挙に合格したという明確な根拠はない。しかし合格説では、高位高官に出世した事実をもって説明する。しかし科挙が出世に決定的であったのは、宋代以降という理解もあり、唐代における科挙の位置づけが問題となろう。
  
 
==Wikipedia日本語版の誤り==
 
==Wikipedia日本語版の誤り==
 
Wikipedia日本語版にいくつかの誤りがある。
 
Wikipedia日本語版にいくつかの誤りがある。
*生年月日を「文武天皇2年〈698年〉」の生まれとしているが、根拠に欠ける。
+
*生年月日を「文武天皇2年〈698年〉」の生まれとしているが、誤りである。
*天平五年(733年)の遣唐使の帰国で同行しなかった理由を「唐での官途を追求するため帰国しなかった」と書かれているが、仲麻呂の意思で帰国しなかったという根拠はない。
+
 これは上野誠説<ref>上野誠(2013)『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』角川書店</ref>に依拠したと思われるが、数え年齢と満年齢とを混同している点で、誤りである。
 +
*天平五年(733年)の遣唐使の帰国に同行しなかった理由を「唐での官途を追求するため帰国しなかった」と書かれているが、仲麻呂の意思で帰国しなかったわけではない。
  
 
==注==
 
==注==

2021年11月17日 (水) 12:34時点における最新版

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ,701年 - 770年1月)は奈良時代に遣唐留学生として唐に渡り中国の皇帝に使え、帰国を果たせず唐で没した人物である。百人一首は阿倍仲麿と表記する。中国では「朝衡」(ちょうこう)と名乗った。中国ではかなり有名な日本人である。

概要[編集]

阿倍仲麻呂は父中務大輔安倍舩守の子として生まれた。母の名は不詳である。生年には文武3年(699年)説と大宝元年(701年)説の2説がある。古今和歌集目録には靈龜2年8月20日に16歳(数え年齢)で遣唐留学生として唐に渡ったとされている。靈龜2年は西暦716年であるから、逆算すると大宝元年(701年)生まれとなる。 略伝によれば、大暦五年(770年)正月に73歳で亡くなったとされるので、ここから逆算すると文武3年(699年)生まれとなる。近年は大宝元年生まれ説が有力であるとされる。唐の太学への入学には年齢制限があり十四歳以上、十九歳以下である。留学生選定時16歳、渡海時17歳、入学時18歳とすると整合性がある[1]

古今和歌集目録[編集]

中務大輔正五位上船守男。靈龜二年八月廿日乙丑。爲遣唐學生留學生。従四位上安倍朝臣仲麿。大唐光祿大夫散騎常侍。兼御史中丞。
北海郡開國公。贈潞州大都督朝衡。國史云。本名仲麿。唐朝賜姓朝氏名衡字仲満。性聴敏。好讀書。靈龜二年以選爲入唐留學問生。時年十有六。
十九年京兆尹崔日知薦之。不詔褒賞。超拜左補闕。廿一年以親老上請歸。不許。賦詞曰。慕義名空在。愉中高不全。報恩無有日。
皈國定何年。至于天寶十二載。與我朝使参議藤原清河同船溥歸。任風掣曳。漂泊安南。屬祿山構逆羣盗蜂起。而夷撩放横。刧殺衆類。
同舟遇害者。一百七十餘人。僅遣十餘人。以大暦五年正月薨。時年七十三。贈潞州大都督。明達律師傳云。有夢松尾明神。
天王寺借住僧等之靈驗也。各委不記可見本傳也。追至公卿。

安倍家[編集]

阿部氏は大和盆地東南部を本拠とする中央氏族である。孝元天皇の皇子大彦命を祖とする。 阿部仲麻呂の父 安倍舩守は中務大輔正五位上である。和銅四年(711年)四月の従五位上から正五位下、養老七年正月に正五位上に昇叙された。(続日本紀)。中務大輔は中務省の次官である。

遣唐留学生[編集]

阿部仲麻呂は靈龜二年8月、16歳で遣唐留学生に選ばれた。そのときの遣唐使は総勢557人。押使(長官)に従四位下多治比真人県守、大使に従五位下大伴宿禰山守、副使に正六位下藤原朝臣馬養(宇合)である。留学僧に玄昉、留学生に阿部朝臣仲麻呂(16歳)、下道朝臣真備(22歳)、井真成(18歳)。養老元年(717年)10月、入唐し、長安に到着した。

唐での活動[編集]

阿部仲麻呂は養老2年(718年)に18歳で唐の太学に入る。721年、東宮司経局校書になる。727年頃結婚した可能性がある。天平六年(734年)玄宗皇帝は仲麻呂の帰国を不許可とした。 中国側史料の『楊文公談苑』の記載に「開元中、朝衡なるもの有りて、太学に隷きて挙に応じ、仕えて補闕に至る。国に帰らんことを求む。検校秘書監を授けて放ち帰す。王維及び当時の名輩、皆詩序ありて別を送る。後去くを果たさず。官を歴て、右常侍・安南都督に至る」と書かれている。太学に入学したことは、王維の送別の詩文にも書かれている。 阿部仲麻呂は唐では朝衡と名乗っている。東宮司経局校書は正九品下相当、「校書」は書物の誤りを訂正する校正担当である。古典を知っていなければ務まらない役職である[1]

帰国の不許可[編集]

天平度遣唐使が来日したとき仲麻呂は老いた父母に孝養をつくしたいからと帰国願を提出したが、玄宗皇帝の許可は得られなかった。略伝に「慕義名空在。愉忠孝不全。報恩無有日。帰國定何年」(義を慕いて名は空しく在り。忠を愉しむも、孝は全からず。報恩は日あることなし。帰國が定まるは何年ならん)とある。皇帝への忠と、親への孝のはざまで苦しむ姿がある。当初の留学計画では帰国の予定であった。

帰国の試み[編集]

天宝12 年(753年、仲麻呂 53 歳)には「秘書監」(従三品。秘書省の長官、文筆の官としては最高位)に昇進していた。 天平勝宝5年(753年)、藤原清河を大使とする遣唐使の帰国に同乗して帰国することが許可された。第1船は藤原清河・阿倍仲麻呂、第2船に大伴古麻呂・鑑真、第3船に二度目の渡唐した吉備真備、第4船には布勢人主らが乗船した。53歳になった仲麻呂としては、最後のチャンスと考えた。第1船は最も安全とされていたが、第一船は日本方面まで来たが漂流し、安南(ベトナム)に漂着し、帰国することはできなかった。清河と仲麻呂らは755年に長安に帰還し、その後は唐に仕えた。第2船は11月21日に阿児奈波島(沖縄島)に漂着し、12月7日に益救島(屋久島)、20日に薩摩国阿多郡秋津屋浦に上陸した[2]。第三船は20日に阿児奈波島(沖縄島)に漂着した。益救島(屋久島)を経て、紀伊国太地に漂着した。第4船は途上で船が火災に遭ったが、舵取の川部酒麻呂などにより、鎮火に成功した。754年4月、薩摩国石籬浦(現鹿児島県揖宿郡頴娃町石垣)に漂着し、帰国できた[1]

古今和歌集[編集]

『古今和歌集』羇旅歌 406首目に収録されている阿部仲麻呂の和歌。

あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

詞書に「唐土(もろこし)にて月を見て、よみける 安倍仲麿」と記載される。 また注」に「この歌は、むかし仲麻呂を唐土にもの習わしに遣わしたりけるに、あまたの年を経てえ帰りまうで来ざりけるを、この国より又使まかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとて出で立ちけるに、めいしうといふ所の海辺にてかの国の人餞別(むまのはなむけ)しけり、夜になりて月のいと面白くさしいでたりけるを見て詠めるとなむ語り伝ふる」 とある。 明州での送別の宴の際に詠まれた歌で、望郷の想いが語られる。送別の開催は753年(天平勝宝5)11月15日のことで、この夜は満月であったという。

仲麻呂の影響力[編集]

玄宗皇帝は、宮殿の府庫(図書館)を遣唐使の日本使[3]に許可した。案内者は朝衡(仲麻呂)であった。朝衡が玄宗皇帝に願い出て許可を得たと考えられている。君主教殿、老君之経堂、釈典殿宇などくまなく見せ、さらに大使(藤原朝臣清河)、副使(大伴古麻呂)の肖像画を書かせ、送らせた[4]。これは他の遣唐使にはなかったことであり、相当に異例の厚遇といえる。仲麻呂の皇帝への影響力によるものと考えられる。

阿倍仲麻呂の記念碑[編集]

護国寺[編集]

東京文京区大塚の護国寺の正式名称は「神齢山悉地院大聖護国寺」である。仲麿塚碑がある。銘文に次が記載される。 此碑旧在大和国安倍村久没  蒿莱無人剥蘚者大正十三年 甲子仲秋移植斯地題詩于其陰      箒庵逸人 「此の碑、旧は大和国安倍邸に在り。久しく蒿莱(こうらい)に没し、人の蘚を剥ぐ者無し。大正十三年甲子仲秋、斯の地に移し置き、詩を其の陰に題す。箒庵逸人(高橋義雄)」

 高橋義雄は実業家で俳人であり数寄者として知られる。箒庵逸人は俳号。著書『箒のあと』下(秋豊園出版部、1836年)で、経緯を書いている。奈良の骨董商の店先で石碑を見つけ購入したという。碑面の文字は温秀高雅で、藤原時代の名家の筆蹟と見た。安倍村は、安倍一族の発祥の地のため、仲麻呂が物故したのち、招魂碑としてこの地に建てたと推測される。東野浩之教授は考古学的見地から7〜8百年前のものとは思えず、江戸時代ではないかとする。江戸時代本居宣長が安永三年(1772年)のこの地を訪れたとき、田の中に「あべの仲まろのつか」があることを記している(『菅傘日記』)。18世紀後半には存在していたと推定される[1]

中国陝西省西安市[編集]

興慶宮は陝西省西安市にあり、玄宗皇帝の兄弟五人の王子たちの御殿として造営された。728年に興慶宮で公式の政務を執りはじめ、大明宮に代わる唐代の政治の中心地となった。現在の興慶宮には勤政務本楼の遺跡や沈香亭、花萼相輝楼、長慶軒、湖などがある。阿倍仲麻呂記念碑は唐の柱に似せてつくられた漢白玉製の記念碑で、高さ3.6メートル、市内の興慶宮公園の東南隅にある。西安と奈良は、昔はそれぞれの国の首都であったところから、1974年に友好都市となり、奈良市長の提案で、西安と奈良に阿倍仲麻呂記念碑が建立された。西安の記念碑は1979年7月1日に立てられている。

科挙に合格したか[編集]

科挙に合格したという明確な根拠はない。しかし合格説では、高位高官に出世した事実をもって説明する。しかし科挙が出世に決定的であったのは、宋代以降という理解もあり、唐代における科挙の位置づけが問題となろう。

Wikipedia日本語版の誤り[編集]

Wikipedia日本語版にいくつかの誤りがある。

  • 生年月日を「文武天皇2年〈698年〉」の生まれとしているが、誤りである。

 これは上野誠説[5]に依拠したと思われるが、数え年齢と満年齢とを混同している点で、誤りである。

  • 天平五年(733年)の遣唐使の帰国に同行しなかった理由を「唐での官途を追求するため帰国しなかった」と書かれているが、仲麻呂の意思で帰国しなかったわけではない。

[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 森公章(2019)『阿倍仲麻呂』吉川弘文館
  2. 唐大和上東征伝(779年)
  3. 750年(天平勝宝二年)九月任命
  4. 宮田俊彦(1961)『吉備真備』吉川弘文館
  5. 上野誠(2013)『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』角川書店